- P.1 「玉くしげ」
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本編は一般に『秘本玉くしげ』と呼ばれることが多い。
その経緯は以下の通り。
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本編は1787年、『玉くしげ』という題名で紀州藩主に献上された。
その際、別巻が添付されていた。
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藩主に献上したものだったためか、宣長は本編の出版許可を出さなかった。
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一方、本編に添付された別巻の方は先に著述したものであり、内容も藩とは関係がなかったので、
『玉くしげ』という題名で先に出版(1789年)された。
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宣長の没後、本編が出版(1851年)された。
その際『玉くしげ』という名前がすでに使われていたので、頭に「秘本」という接頭辞を付加し、
『秘本玉くしげ』という題名で出版された。
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結果的に、別巻の方に本編の題名が付き、本編の方には「秘本」という接頭辞が付いた。
- P.3 御国政
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日本の政治ではなく、紀州の国の政治を指す。
P.5 の補注を参照のこと。
- P.3 我が君
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紀州九代目藩主・徳川治貞。名君として知られ、「紀州の麒麟」と称された。
紀州徳川家は徳川御三家の一つで、二人の将軍(徳川吉宗、徳川家茂)を出している。
- P.4 他国
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いわゆる外国ではなく、日本国内で紀州の国以外の国を指す。
宣長はいわゆる外国の事は「外国」、「異国」と呼んでいる。
P.5 の補注を参照のこと。
- P.5 天下、一国一郡
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天下とは日本全国をさす。ただし蝦夷地(現在の北海道)と琉球(現在の沖縄県)は
当時まだ日本ではなかったため含まない。
国とは、大宝律令(701)から廃藩置県(1871)までの地方の行政単位。
その範囲は現在の「県」に近く、
信州(今の長野県)や土佐(今の高知県)のように一致するものも数多い。
現在でも名産品などには旧国名が使われることが多い。
例: 讃岐うどん、備前焼き、信州そば、阿波踊り、薩摩芋
また、普段の言葉にも名残が多く残されている。
例: 御国自慢(ふるさと自慢)、全国(すべての国)
郡の意味は今日と基本的に変わらないが、今日では市に組み込まれて消えつつある。
- P.5 飯上のはえを追う
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大本の原因を調べて対処することなく、目の前の現象にだけ対処する愚かさの例え。
- P.6 四書五経
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儒学の経典。
四書は『論語』、『大学』、『中庸』、『孟子』、
五経は『詩経』、『書経』、『礼記』、『易経』、『春秋』をさす。
儒学はシナで発達した政治・道徳の学問。江戸時代には幕府によって官学に採用されていた。
- P.6 経済
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経済という言葉は、元々シナの「経世済民」(世の中を治め、人民の苦しみを救う)の略語だったが、
江戸時代の日本で、今日と同じ「貨幣の流通を前提とした経済」を意味するようになった。
- P.7 聖人
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古代シナの偉大な統治者であり理想とされる人物の総称。
代表的な聖人は、尭、舜、禹(夏王朝)、湯(殷王朝)、武(周王朝)ら。
彼らは儒教の世界では神聖視されているが、
宣長は「主君を滅ぼし国を奪った極悪人(P.167)」と見ている。
- P.7 唐土
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「唐土」「漢国」という言葉は歴史的に漢民族が支配した国家をさす。
今日の言葉でシナ(支那)が該当する。
その領土はおおむね今日の中華人民共和国から、旧満州国と五つの自治区
(内モンゴル自治区、新疆ウイグル自治区、チベット自治区、広西チワン族自治区、寧夏回族自治区)
などを除いたもの。台湾を中華人民共和国の一部と見なすのであれば、台湾も除く。
今日の中華人民共和国の領土は清王朝のほとんどの領域を含んでいるが、
P.182 の記述から分かるように、宣長は清王朝を他民族(満洲族)による征服王朝と認識している。
- P.13 漢学
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当時の日本では「学問」とだけ言えばシナの学問のことを指し、日本の学問については「和学」、「国学」
と呼ぶことが多かった。宣長はこの風潮に批判的であり、自著『ういやまぶみ』の中で、
「自国の学問をこそ『学問』と呼び、シナの学問はこれと区別するために『漢学』と呼ぶべきだ」
と述べている。
- P.26 武士には定まった俸禄がある
-
浪人(失業した武士)を除くすべての武士には俸禄(給料)があり、今日で言えば公務員のような存在である。
俸禄は米で与えられたが、上級武士の場合は領地ごと与えられた。
- P.26 お手伝い
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幕府が計画する公共事業(治水工事や城の建設等)に無償で動員されること。
資材や人件費をすべて無償で提供しなければならなかったので、藩の財政を大いに逼迫させた。
外様藩を弱体化させることが目的だったとも言われる。
- P.31 東照神御祖命
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徳川家康のこと。
家康は久能山・日光をはじめとする全国約100の東照宮で、東照大権現という神名で祀られている。
- P.32 今の時代の年貢はあの戦国の時代の税率のままなのだから
-
当時の年貢の税率は藩や年代によって異なるが、
一般に四公六民・五公五民などと言われ、それぞれ税率40パーセント、50パーセント。
厳しいものでは七公三民(税率70パーセント)というものもあった。
- P.32 他国にはあると聞くが、
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悪い政治の例は必ずこのように他国の事として語られる。
これは藩主に気を使ってのことと思われるが、
当時の藩主・徳川治貞がまれにみる名君であったことも関係しているだろう。
- P.44 今日、町人の贅沢はとりわけ甚だしいものである
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宣長の住んだ松坂には当時裕福な商人が数多くいた。
『玉勝間』によると、多くの商人は江戸に出店を持ち、主人は国元で贅沢な暮らしをしていた。
宣長の実家も元は江戸に出店を持つ木綿問屋だった。
宣長の自宅から歩いて数分のところに、後の三井財閥となる呉服屋(越後屋)の三井家がある。
- P.159 直毘霊
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直毘神は伊邪那岐神の禊の際に生まれた神直毘神・大直毘神の二神。
禍を直す霊力を持つとされる。
このタイトルの意味は本編の終りで(P.198)明かされる。
- P.161 神御祖天照大御神がお生まれになった大御国
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『古事記』によると、伊邪那岐神が黄泉の国から戻って禊を行った際、
左目を洗った時に天照大御神が生まれたとされる。
禊の場所について宣長は自著『古事記伝』の中で、日向の国(現在の宮崎県)であろうに比定している。
- P.161 三種の神宝
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皇位の証として代々受け継がれた三つの宝。天照大御神が天孫降臨の際に授けたとされる。
具体的には、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の三種。
- P.162 皇孫尊(すめみまのみこと)
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天照大御神の子孫。歴代の天皇をさす。
- P.162 天皇命(すめらみこと)、天皇(すめらぎ)
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宣長は自著『古事記伝』の中で、「すめらみこと」の典拠として養老令儀制令の義解、
日本紀竟宴和歌等を挙げている。
また、『本居宣長随筆』の中では、「すめらみこと」という読みは、
天皇という表記が生まれた後に作られたものであろうと述べている。
- P.164 現御神として大八洲国を統治なさる
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この表現は祝詞・宣命に見られる。
藤原頼長『台記』別記所収の「中臣寿詞」、『続日本紀』所収の文武天皇の宣命など。
大八洲(おおやしま)は大和言葉で日本の本号。
八州は『古事記』によれば、淡路島、四国、隠岐の島、九州、壱岐の島、対馬、佐渡が島、本州をさす。
「日本」は孝徳天皇即位(645年)以降、外国に向けて使われた表記。「日本」と書いて「やまと」と読んだ。
- P.165 神の国
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出典は『日本書紀』神功皇后の巻の新羅王の言葉。
「吾聞、東有神国、謂日本。亦有聖王、謂天皇」とある。
(現代語訳: 私は、東方に日本(やまと)という神の国があり、天皇(すめらみこと)という聖王がいると聞いている)
- P.165 美知(みち)
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漢字の音だけを用いた「道」の表記。「みち」は大和言葉。
漢字が伝来すると、当時の日本人は漢字を使って日本語を書き表す方法を二つあみだした。
一つは、漢文のまま「道(ドウ)」と表記しながら、読むときは日本語で「みち」と読むもの。
もう一つは、この「美知」のように漢字の音だけを借りて日本語を表現するもの。
読みを正確に表記する必要があるときに後者が用いられたが、ここで宣長がこの表記を
用いたのは「みち」が大和言葉であることを読者に喚起するためと思われる。
- P.168 六経(りっけい)
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儒学の代表的な六種の経典の総称。
具体的には『詩経』、『書経』、『礼記』、『楽経』、『易経』、『春秋』の六つをさす。
これから『楽経』を除いたものが「五経」。『楽経』は今日に伝わっていない。
- P.173 漢意(からごころ)
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外国流の理屈っぽい精神。
様々な抽象概念を用意して、善悪や道理を決定するのが特徴。
宣長は自著『玉勝間』一巻の「からごころ」の節で、
「漢意とは、漢国(シナ)のしきたりを好み、その国をあがめることだけを言うのではない。
一般に世の中の人が、様々なことについて善悪是非を言い立て、ものの道理を決定して言う類など、
何についても漢籍の趣であることを言うのである」と述べている。
自著『宇比山踏(ういやまぶみ)』ではさらに端的に、
「千年以上も世の中の人の心の底に染み着いている病」と言い切っている。
漢籍意(からぶみごころ P.181, P.197)も同義。
- P.175 天命
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古代シナでは、天が徳のある者に命令を下して天子とし、天に代わって人民を治めさせると
考えられていた。そして為政者の徳が失われると、また新たな天命を下して王朝交代をさせるとされた。
天の命令を「天命」、天命が改まることを「革命」と言った。
宣長は天命の説を、新たな王朝が前王朝にとってかわることを正当化するための理屈付けに
過ぎないと考えている。
- P.176 周公
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周の政治家で、魯の開祖。周代の礼楽制度の基礎を作った。孔子が崇拝した聖人の一人。
- P.176 孔子
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春秋時代の思想家。儒学の祖。尭、舜、禹、泰伯、文王、周公を崇拝した。
儒教の考え方に批判的な宣長も孔子については好意的で、自著の中で度々彼を引き合いに出している。
- P.176 秦の始皇のような荒っぽい人物
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始皇は秦の王。シナ史上初めて国家統一を果たし、皇帝と自称した。
「荒っぽい」とは、焚書坑儒(秦王朝を批判する儒学の本を焼き払ったり、学者達を穴埋めにしたりした)
や万里の長城建設(巨大な土木工事に民衆を駆り出し、多くの犠牲者を出した)のことをさすか。
- P.177 「舜は尭の国を奪い、禹もまた舜の国を奪ったということだ」
-
これはいわゆる堯舜伝説を否定する発言。堯舜伝説の大旨は以下の通り。
「尭は徳のある理想的な君主で、国民はみな平和に豊かに暮らしていた。
年老いた尭は息子には徳がないとして後継者に指名せず、身分に関わらず君主に相応しい器の人物を探し求め、
ついに舜に巡り合う。尭は舜を自分のもとにおき、徳のある優れた人物であると見極めた上で、
固辞する舜に天下を譲った。」
(同じく舜も自分の息子は後継者に相応しくないとし、治水工事に成果を出した禹を後継者に指名した)
唐代の歴史書『史通』はこの堯舜伝説に疑問を呈し、舜は強制的に尭を退位させて後継者になったのでは
ないかと記述している。宣長もこの伝説を、天命の説と同じ類の、支配者が入れ替わることを正当化する
ための作り話と見ている。
- P.178 禍津日神(まがつびのかみ)
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災厄の神。直毘神と同じく伊邪那岐神の禊の際に黄泉の国の穢れから生まれたとされる。
- P.180 神祖(かむろぎ)
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一般に神祖とは男神の尊称とされるが、宣長は伊邪那岐大神・伊邪那美大神をさす言葉として
使っている。
- P.180 畏れ多くも大朝廷に敵対して天皇尊を困らせ申し上げた北条義時・泰時、足利尊氏
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北条義時・泰時は承久の乱(1221)で後鳥羽上皇の朝廷軍を破った。
足利尊氏は建武3年(1336)に北朝をたて、南朝の後醍醐天皇と争った。
- P.186 舎人親王を始めとして、代々の知識人達は道の意を悟ることができず
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舎人親王は『日本書紀』の編纂者。宣長は自著『古事記伝』の「書紀についての論」の中で、
書紀の記述は漢意に陥っていて、その精神も言葉も上代のものではないと述べている。
また、自著『宇比山踏』の中では、初学者が漢意に陥らないように、
『日本書紀』よりも先に『古事記』を読むように勧めている。
- P.188 皇国魂(みくにだましい)
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外国文化を輸入する以前の日本古来の精神。
宣長は漢意を「心の底に染み着いている病」(P.173の補注参照)と言っているので、
皇国魂はその病にかかる前の健康な状態と認識していたことが分かる。
皇国魂は、「大和魂」(やまとだましい)、「大和意」(やまとごころ)、「古意」(いにしえごころ P.93)、
「御国意」(みくにごころ P.197)と同義。
「やまとだましい」は『源氏物語』、「やまとごころ」は赤染衛門の歌が初見とされる。
新渡部稲造は自著『武士道』の中で「武士道を表す大和魂」と言っているが誤用と思われる。
今日「大和魂」は、勇敢さや潔さを表現する言葉として使われることが多いが、
宣長がそのような意味で使うことはない。
- P.188 みなあの(漢国の)理屈っぽい教え事を羨んで、近世になって勝手につくり出したもの
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儒教(朱子学)の考え方を採り入れた垂加神道などをさすと思われる。
宣長は自著『答問録』の中で垂加神道について、「儒教の大熱に冒されて難治の病」にかかっていると
述べている。
一般に儒教の影響を受けた神道を儒家神道といい、古典に戻って神の道を明らかにしようとした
宣長らの神道を復古神道という。
- P.197 穢らわしい漢籍意を祓い清めて、清々しい御国意をもって
-
漢籍意は漢意(からごころ P.173)と同じ。御国意は皇国魂(みくにだましい P.188)と同じ。
- P.198 以上で述べた事は、...ことごとく古典に由来があることなので、
-
このように古典に基づいて神の道を明らかにしようとする姿勢が復古神道の流儀である。